テニスが野球やサッカーのように世界で通用しない理由 PART6
こんにちは!なんともまとまりのないことに、今回でPART6!
PART1からPART5は、ブログの終わりにリンクを貼ってますので、よかったらどうぞ。
今回も前回の遠吠えに引き続いて、内田樹さんの『日本辺境論』から勉強していきたいと思います。
前回同様に、引用文や要約文は青で書きます。
前回のブログでは、『日本人は確固たるスタイルがなく、きょろきょろしているが、
それは辺境人たるゆえんである』というようなことを書きました。
その続きからいきたいと思います。
内田さんは、司馬遼太郎さんの小説は日本人には読まれているけど、外国人には読まれていないという事実をふまえて、『そのようにその国の国民性格を知りたいと思った時に、国民作家の書いたものを読めばいいと思うのは私達日本人だけだ』と言ってます。『日本人は日本文化論が大好きなのだと。それは、われわれがこういう国だという名乗りから始まった国ではないからだ』と内田さんは言ってます。
テニスでもそうですよね。日本のテニスについて語ることがみんな大好き。決してスペイン人はスペインテニスについて語ることが好きではありません。そして、僕達がスペインテニスや、アメリカテニス、オーストラリアテニスを語る時に、語られる選手は全て世界のトッププレイヤーです。
これは、『イギリスの国民性格を知ろうとする時に、イギリスの作家であるシェークスピアを読んでいるのと同じこと』です。シェークスピアは国民文学ではなくて世界文学です。イギリス人はこうなんだと言ってるわけではなくて、人間とはこうなんだということを語っている。テニスのナダルやフェデラー、サンプラス、アガシ、ラフターなど各国を代表するトップ選手も同じで、彼らのテニスがその国のテニスを表しているというよりは、彼らは世界のテニスを表しています。彼らをみて、アメリカのテニスは。。。とかスペインテニスは。。。とか語ることは日本人の特徴かもしれません。実際に留学するとわかるんですけど、スペインにもヘタレはたくさんいるし、スピンかけないプレイヤーもたくさんいます。国民性格を一括りにして語ろうとするのは、日本人だけの特徴かもしれません。
そして、『日露戦争で勝利した時の日本人と他の時代の日本人とを比較してどの時代の日本人が優秀であったかを考えることこそ、「日本人とは何か」についての国民的合意がない証拠である』と言っています。松岡が、伊達が、錦織が。。。と語られますが、彼らの特徴が日本テニスの特徴ではありません。なのに、絶えず僕達はそれを探そうとします。きょろきょろと。。。
次に、『自説を形成するに至った自己史的経緯を語れる人とだけしか私たちはネゴシエーションできません。「ネゴシエーションできない人」というのは、自説に確信を持っているから「譲らない」のではありません。自説を形成するに至った経緯をいうことができないので「譲れない」のです。』という言葉。
これはものすごく感じます。テニスの技術論や育成論にしても同じです。日々の指導経験やその実績、生きている社会的風潮などをふまえて、日々の指導はなされる。なのに、どっかの研修で習ってきたというだけで、すべてを無視して指導する。。。その指導者には、その指導に至った経緯を話すことはできない。だから、ネゴシエーションできない。。。これはある種、致命的だと思う。一人一人の人生が育成に生かされるのは、その指導者の自説にストーリーがあるからだと思います。そこにストーリーがあれば、正解も不正解もないという『育成』の形態がとれると思う。しかし、そこに一人一人のストーリーがなく、指導そのものが誰かの受け売りであった場合、行われていることは『育成』ではなく『査定』になってしまう。そこには正解と不正解が存在してしまう。。。
複数の選択肢のうちから最良のものを選択できるような俯瞰的な考量的立場に立つことを禁じられたまま選択を迫られたもの、「起源に遅れて世界に到来したもの」が発達させらることのできる才能はそれしかありません。
この言葉はテニスにおいて、どのように考えればいいのかを示してくれています。「起源に遅れて世界に到来したもの」とは辺境人である日本人です。選択の余地なしに選択させられると、日本人は学びの能力が発揮できるということです。あの教え方はいいから、あそこのクラブにいこう。というのではわれわれ日本人の学びの才能は発揮されない。とにかく、あそこのテニスクラブにしようと、決めてしまった方が学びは始動してくれる。その通りだと思います。結婚もそうでしょう。恋愛結婚よりも、お見合い結婚の方が結婚に対する学びが始動して、結婚自体を安定して進めることができる。最初から、相手がどういう人かわかっている方が、学びが始動しないために失敗しやすい。
努力と報酬の間の相関を根拠にして行動すること、それ自体が武士道に反する。新渡戸稲造はそう考えていました。私はこのような発想そのものが日本文化のもっとも良質な原型であるという点において新渡戸に同意します。
これは以前のブログにも書きました。この努力をしたらどんな報酬があるのか?それを知ってしまったら『学び』は始動しないのです。
私はなぜ、何をどのように学ぶのかを今ここでいうことができない。そして、それを言うことができないという事実こそ、私が学ばなければならない当の理由なのである。
これはテニスのレッスンをしていると指導者の立場としてよく思うことです。『コーチがプレイヤーにマスターしてもらいたい内容を口にしてしまうことが、プレイヤーがそれをマスターするチャンスを潰してしまう』と感じることが多いからです。
例えば、練習試合の中で、コートの後方から打点を落としてウイナーを狙いにいくプレイヤーに対して、コートの中に入って打点を高く取ることを伝えたいとする。このことをいかにそのまま言葉にせずに伝えるかが重要であると思う。気づいて学びたいという意欲がでてから、伝えるのがベストだと思う。このあたりも以前のブログに書いた気がする。
弟子は師が教えたつもりのないことを学ぶことができる。
これも『学び』のメカニズムがしっかりと現されている言葉だと思う。結局は、偶然性に託すしかないんだと思う。プレイヤー自身の『ひらめき』や、技術をマスターしたいという『心の渇き』、なんとしても勝利したいという『餓え』がたぐりよせる『ある種の悟り』こそが、学ぶことによって得た収穫であると思う。
もう10年以上も前のことだけど、僕の師匠であるコーチが、他のスクールから移籍したいというプレイヤーとおこんなやりとりをしていました。
「なぜ、うちのスクールに来たいの?」
「今のスクールはコーチが熱心ではないから、やる気がでない」
「コーチの熱心さなんて関係ない、お前はうちにきても同じ、だからこなくていい」
その当時は、師匠の言ってることがよく理解できませんでした。今になってわかります。
僕の師匠は『学び』のメカニズムを理解していたんです。
でもちょっと深読みすると、弟子である僕は、師匠が教えるつもりのないことを学んでいる。
単に虫の居所が悪かっただけかもしれません、笑。ってか怒られるわ!笑!
冗談はさておき、今日も日本人がゆえの、特徴について考えました。続きはまた日曜日に!
関連する以前のブログ
テニスが野球やサッカーのように世界で通用しない理由 PART1
テニスが野球やサッカーのように世界で通用しない理由 PART2
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