均一化。。。


前回のブログで、世界に溶け込んでいくことが大切だと思うと書きました。私自身、26歳でバルセロナに留学するまでは、テレビのテニス中継でしか世界のテニスを知りませんでした。あとは、雑誌などでテニス選手のコメントや技術解説をみるくらい。世界のトッププレイヤーはとても遠い存在であり、自分とも距離感がまったく掴めない存在でした。

みなさんにとって、『世界』という言葉はどのようなイメージがありますか?テニスの世界ではよく使われる言葉です。『世界で通用する。』『世界で戦う。』などですが、この場合の『世界』とはATPやWTAなどの世界ランキングを獲得できる大会に出場することでしょうか?それとも、テレビに映るグランドスラム大会に出場することでしょうか?そもそも『世界』という言葉を、単なるイメージで使っていると思います。漠然と、『手の届かないレベル』『今まで日本人はあまり活躍できていない舞台』とかいう意味で使用していると思うのです。私は、この『世界』という言葉のイメージをしっかりと持ち、共有することが重要だと思います。

このことは、教育でも同じだと思います。日本国内なら、一流大学を出て一流企業に就職するという成功イメージが共有できています。では、世界の舞台で仕事で活躍するとはどのようなことなのか?またその為には、どのようなチャレンジをすればいいのか?という議題に対しては、我々日本人は明確な答えを共有できていないと思います。私が留学において経験してきた範囲で考えると、『世界』の特徴は『格差を認めること』だと思います。対象的に表現すると、『日本』の特徴は『均一化すること』です。私はこの『均一化すること』の風土の中で育ってきましたし、仕事もしていました。そんな経験を経ての留学だったので、あらゆる場面において、この『格差を認めること』と『均一化すること』の違いに気づきました。

まず、私が日々共に練習していた選手のレベルを簡単に説明しておきます。日本ランキングでいうとだいたい70番から500番くらいです。日本国内の感覚で言えば、かなり幅が広いかもしれませんが、サテライトやフューチャーズに出場する力をつけようといったコンセプトのチームだったように思います。その環境において練習してみて、私が日本人以外のプレイヤーに対して最初に持ったのは、『下手だなぁ』という印象です。年齢は15歳から20歳くらいのプレイヤーがほとんどでしたが、テクニックでは日本の同年代のプレイヤーの方が遥かに上です。ラリーもミスが多いし、集中力も持続しない。球質を見極められない人が見ると、日本人の方が遥かにうまく見えるはずです。ただ、試合をしてみると意外と強いのです。練習だけ見ていると、日本人があっさり勝ちそうな気がするのですが、苦戦し、毎日勝ったり負けたりの勝負が続きます。同じカテゴリーで練習しているので、試合での勝ち負けが拮抗することは理解できます。

でも、なぜ日本人だけが『上手そう』に見えるのでしょう?さらに知りたいのは、世界標準で言えばその『上手そう』な部分はどのように評価されているのでしょう?それは単なるキャラクターであると思います。これってかなり重要なことだと思うのです。我々が教えられ、練習してきたことは、単なる『均一化すること』でありそれはただのキャラクター。テニスを強くなるために日本で頑張っていたことは、『均一化』しようとしていただけ。日本人は上手いし、きれいだし、我慢強いし、まじめに練習する、だけど。。。ひとつひとつの言葉に裏があります。

上手いけど弱い。

きれいだけどパワーがない。

我慢強いけどそれに頼りすぎる。

まじめに練習するけど休むのが下手。

均一化され平均点は高いのですが、それが『世界』の舞台だと、なぜか短所に思えてくるのです。『格差を認める』と『世界』に溶け込んでいけるように思えます。

誤解を恐れずに言えば、どんどん格差をつけていっていいと思います。格差をなくそうとすると指導は『均一化』の方に向かいます。下手で不器用なプレイヤーを、きれいなフォームに直す必要はないと思います。不器用なりに自分の長所を見極めて、強くなっていけば良いのです。才能があっても練習で手を抜いてしまうプレイヤーもそれでいいのです。無理矢理『均一化』するより、本人に自覚を持たせることが大切です。不器用さや努力をしない姿勢を無理矢理『均一化』することによって、見た目の『格差』はなくなるかもしれませんが、飛び抜けた存在も現れにくくなってしまいます。コーチの存在は大切です。『世界』を意識するなら、『均一化』はよくない。『世界』に通用するものを身につけなければならないのです。『均一化』しようとすると、プレイヤーもそれが上達することだと思い込んでしまいます。プレイがある程度固まってから、通用しないとわかってももう遅いのです。

テニスの勝負は残酷で、レベルが違うとポイントすら取れません。試合をしていて勝てる気が全くしません。トランプのゲームに例えてみます。5枚ずつカードを持ち、一枚ずつ出し合って出したカードの数字が大きい方が勝ちとします。『均一化』されたプレイヤーはカードすべてが7のようなものです。ある程度のレベルに達するとすべて通用しません。しかし、残りの4枚は3でも、一枚だけキングを持っていれば、通用するものがあるということです。そのキングのカードを武器にポイントを取りに行けます。しかし、『均一化』されたプレイヤーはもう打つ手がありません。話を戻すと、私がバルセロナで練習していたカテゴリーでは、このキングのカードを持つために努力する為のカテゴリーだったのです。キングのカードを手に入れる為なら、他のカードは3でもいいのです。私はこの3のカードを見て『下手だなぁ』と思っていたのです。彼らはそんなことを気にして練習していないので、意に介するはずがありません。もし、彼らがキングのカードを手に入れることができずに、テニスをやめてしまっても『世界』にチャレンジしたということができるでしょう。

問題なのは、我々の中に『均一化』が根付いてしまっていることです。一緒に練習していた外国人達は意に介さないことを、我々は無意識に重要なことであると勘違いしていることです。世界に溶け込むには、無意識に『均一化』していく自分に気づき、意識的に『格差』を認める努力が必要であると思う、今日この頃です。

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