ますます加速する多様性


こんにちは!全日本ジュニアも佳境に入ってきました。各カテゴリーで決勝が行われています。このブログを更新する頃には、すべての決勝が終わっているころかな?
ベスト8以降になると、指導者としてではなく、いちテニスファンとして楽しむことができるほど、白熱したラリーが行われます。ぜひともそれぞれの夢に向かって頑張って欲しいと思います。
さて、先日コーチ室で他のコーチと話をしていた時のこと。あるジュニアプレイヤーのお母さんは、『親はテニスに関しては口出しせずに、子供の為に環境を整えることが、子供の為には一番いい』と言われたことがあり、その通り実践しているとのことでした。
倫理的、道徳的には日本人の心には綺麗に響く言葉だと思います。しかし、それが唯一の正解ではないのかなとも思います。
もう一つの綺麗な言葉。『努力に勝る才能なし』これもいい言葉ですよね。でもそれならば、親御さんがテニスについてアドバイスをしたり、軋轢を恐れずに自分の子供のテニスを中心に生活していくことを100%否定できなくなりますよね。
家族ぐるみで必死で努力してテニスプレイヤーという職業を目指すことは、『努力に勝る才能なし』にはてはまります。幼少の頃から、しっかりと科学的根拠に基づいた英才教育をするとか、とにかくスパルタで鍛えるとか方法はたくさんあるし、ある種の倫理観からすると『やりすぎ』であるとか『無理やり強くしても』とかいう反応があっても、それすらも努力と位置づけてしまえば、それも正解の一つになります。
上記の『口出ししない』ことを良しとする場合は、指導者にまかせ、そしてプレイヤーの才能の最高到達点までいくことが、そしてその過程を通じて人間として成長すればいい。というニュアンスが感じ取れます。戦後からバブル世代、ロスジェネ世代くらいまではスポーツとはそのような位置づけであったのかもしれません。
確かに、『才能』というものは、圧倒的なものです。僕は偶然、バルセロナ留学時代に毎日同じクラブで練習するアンディ・マレー(当時はチャレンジャーに出ている頃)を見る機会に恵まれましたからよくわかります。
しかし、世界水準の才能でなければ努力でなんとかなるのがテニスだと思います。かけっこで努力して普通の人が日本でトップクラスになることは不可能だと思います。先天的な才能が必ずいると思います。でもテニスは、かけっこほど先天的な才能の壁は厚くないと思います。
話を戻すと、スポーツが青春の1ページ的なものから、その存在を大きく変えつつあるのかなと思います。特にテニスは、国レベルでの確固たる指導法があるわけでもなく、団体競技でもないので、個人個人にその活動の方針が決定しやすいです。
僕は、どのような倫理観で、どのような育成論でもいいと思います。ただ、しっかりとチャレンジして、自らの過ちを認め、方針転換を恐れずに、意固地になり過ぎずに進んで行けばいいと思います。国中が一つの倫理観や道徳観を共有する時代は終わりました。ある意味で息苦しいですが、それぞれが多様性を認め合い、それぞれがお互いを認め合い、テニスにチャレンジすることが大切だと思います。
お互いの多様性を認められなかったり、お互いの良い所を感じとれないとあまり良くない方向にいくかもしれません。柔軟性が必要です。柔軟性を身につけるには、たくさん情報を集めて、自分の倫理観をしっかりと形成することです。
どのような道を歩んでいくにしても、ルールが変わりつつある、いや変わってしまったと言っていいと思います、ルールが変わったと認識することが必要でしょう。
ルールとは、『当たり前の』とか『常識的な』とかいう枕詞と言えるでしょうか。
テニスにチャレンジしている以上、試行錯誤を繰り返して、余計な苦労を背負い込んで、回りの何倍も疲労して、リスクを犯して、練習する毎日を繰り返すしかない。それは多様性にかかわらずみんな同じです。
僕はそれらをぼけぼけ眺めていたい。でもぼけぼけしてられないほど、巻き込まれてますが。。。笑。
iPhoneからの投稿

この投稿へのトラックバック

トラックバックはありません。

トラックバック URL

注目記事

テニス留学・質問についてお問い合わせ